映画『ジョーカー』について一言

私が映画『ジョーカー』を見て、最初に持った感想は「とても中途半端な映画」というものだった。というのも「追い詰められた人間が犯す暴力を肯定的に描いた映画」という先入観をご多分に漏れず持ち込んでいたためだ。
弱者の暴力を正当化する映画として『ジョーカー』を見たときには、奇妙で納得できないことだらけなのだ。

終盤、富裕層への不満が爆発した民衆のデモが、ジョーカーの殺人をきっかけに暴徒化していくのだが、劇中それと分かるほどに民衆が貧困にあえいでいる様子が描写されていない(アーサーと母親の家庭がつましい暮らしなのは、社会的背景とは別の理由がある)。
富裕層がどんな不正を働いているのかも、全く分からない。
民衆の暴力を正当化する根拠が、少なくとも劇中では見いだせないようになってしまっているのだ。
しかも奇妙なことに劇場のシーンでチャップリンの「人生は近くで見ると悲劇だが、遠くから見れば喜劇だ」という、アーサーの人生を連想させる皮肉を体現する『モダン・タイムス』を見て笑っているのは、批判されるべきはずの金持ち連中なのだ。

民衆の求心力の中心であるはずの、アーサーの行動とその結果はもっと不可解である。
時系列を追ってみてみよう。

  • 映画の冒頭で、ある店舗の閉店セールの宣伝をしていた時、店の看板を不良少年たちに強奪され、挙句ぶちのめされたアーサーは、それがきっかけで上司にどやされる。盗まれたのだと抗弁するアーサーに上司は「そんなものを盗むやつはいない」と聞き入れてくれない。
    一見アーサーは完全な被害者である。実際看板の破壊と暴行については誤解の余地はない。
    しかし、なぜその事情を閉店セールの店員は知らなかったのだろう?どうやらアーサーは暴行を受けた後、店に戻らず、事後の連絡も取らなかったようなのだ。目撃者も多数いたはずなので誤解を解くのはそう難しくなかったはずだ。けがの程度は知れないし、きっかけを作ったのは彼自身ではないが、その後の処置は咎なし、とは言えまい。
  • 拳銃の件。ランドルに渡されただけで所持自体彼の罪ではないが、小児科のしかも慰問に持ち込む必要はない。この件でアーサーは組合を首になる。
  • 少年ブルース・ウェインとの邂逅。自身がトーマス・ウェインの息子だという母親の話が、妄想に過ぎないとすれば、追い払われるのは無理はない。
  • 劇場でのトーマス・ウェイン。母親の話が妄想だとすれば、「自分はあなたの私生児だ」と言われれば、殴るのは行き過ぎにしろ、怒るのは当然だろう。
  • ソフィーとの関係。親密になったのはアーサーの妄想だった。どうやったのか彼女の部屋へ彼は不法侵入して追い出される。

アーサーの行動には自業自得であるか、少なくとも正当とは言えないものが多数あることが分かるだろう。一般的な解釈と行き違いが生じている。

さて、ここからは劇中のアーサーよろしく私の妄想に過ぎないが、この映画のもう一つの見方を示したいと思う。
映画『ジョーカー』は一般的な解釈、つまり「アーサーは無罪であり、にもかかわらず社会から虐げられており、そのため復讐の暴力には一抹の正当性を有する」というミスリードを意図的に演出しているのではないだろうか。

傍証のため、アーサーの行動中最大の罪を検討してみよう。殺人である。
アーサーの犯した殺しの人数は、劇中はっきりしているもので6人になる。

最初の殺人は地下鉄で女性に絡む三人組を、結果的にからかったことから始まる。彼らに暴行を受けたアーサーはランドルの拳銃で二人を撃ち殺し、最後の一人の足を打った後、ホームの階段から逃れようとするところにとどめの2発を撃ち込む。
最初の二人の殺しはほぼ正当防衛と見て問題なかろう。強いて言うなら一人、あるいはただの威嚇で済んだかもしれないが。
三人目の殺しは言い逃れようのない故意の殺人である。

四人目。母親。アーサーは幼少時虐待を受けていたらしいが、母親がそれにどう関わっていたのか判然としない。私は劇中から証拠を発見できなかった。判断を保留したい。

五人目。アーサーの部屋をゲイリーととともに訪れた元同僚のランドルが、拳銃の話を持ち出した後、彼は隠し持ったハサミでランドルを刺し殺す。
この殺しは劇中最も暴力的だが、多少同情出来るものかもしれない。譲り受けた拳銃の件でアーサーが首になったとき、ランドルは自分が渡した銃であることを隠し、かばってくれなかったのだ。ただし、ランドルがアーサーに犯した仕打ちはこれだけである。
ランドルがアーサーに拳銃を渡したことは本当にただの親切心だったのではないか。穿った見方をすれば、不法所持の銃の証拠隠滅のため利用したのかもしれないが、その確証は映画の中では見つけられない。
しかも、彼は母親のお悔やみのためにわざわざ訪問してくれたのである。彼が警察に対して「口裏を合わせよう」と言ったのは(喪中には失礼に当たるかもしれないが)、最初の三人の殺しの犯人がアーサーであることに感づいて、かばおうとしてくれたのではないか?
ランドルの死後、アーサーは「君だけは親切にしてくれた」と言い、矮人のゲイリーをドアロックを外して開放してやるが、ゲイリーに親切にされた場面があったろうか?むしろアーサーはゲイリーがゴルフにまつわる侮辱的なジョークを言われたとき、一緒に笑っていたのだ(これは単に病気の発作かもしれない)。

映画の描写が信頼できる限り、確認できた最後の殺し。ピエロのメイクに身を染めたアーサーはテレビの生放送中にホストのコメディアン、フランクリンを撃ち殺す。
この殺しは復讐として妥当だろうか?
事実を整理しよう。映画の序盤、フランクリンのスタンダップ式の放送中に、発作からか、あげた場違いな笑い声をきっかけに、アーサーは舞台に上げられることになる。舞台上でフランクリンはアーサーに「君のおかげでうけが取れた」と優しい言葉を耳打ちする。
その後、初舞台を踏んだアーサーの映像をフランクリンが放送で半ば嘲笑的に取り上げたことが極めて断片的に語られる。
出演する番組生放送直前のアーサーの楽屋に訪れたフランクリンは「ピエロのメイクをやめなければ出演時間を減らす」と言うプロデューサーを説き伏せてまで、彼をかばう。
生放送中、アーサーがネタ帳を見ながら話し、ジョークの出来も悪いことをフランクリンは揶揄する。
公衆を前に話すフランクリンがアーサーに対して侮辱的なのは多分事実である。ところがその裏での接し方は180度異なった態度なのである。おそらくフランクリンは、アーサーの言うように彼を笑いものにするために番組に呼んだのではなく、本当にただ駆け出しのコメディアンにチャンスを与えるつもりだったのだろう。アーサーの仕打ちはほとんど逆恨みに近い。

神経質な人間は、とかく案外自分が周囲の人々から暖かく見守られていることに無自覚になりがちなものである。反対に、アーサーの行動はそのほとんどが、犯罪や暴力を嫌悪する普通の市民からは受け入れがたいものになってしまっている。ところが映画の中の市民は、ピエロの殺人に熱狂してデモを敢行するのだ。それはこの映画を、怒りの肯定と正当化に基調を置いている、と受け取る人々が多数いることと不思議と一致する。

ジョーカーの作った最大のジョークは、映画そのものと、誤読に基づく観客の反応なのではないだろうか。
私が思うにこの映画の主張は「人々が抱えている復讐心というものは、そのほとんどが根拠も脈絡もない。少なくとも正当化されえない」ということだ。実際映画を見た観客の多くが正当化しがたい暴力をふるうアーサーに共感したではないか、というわけだ。

トッド・フィリップスは本作について、スコセッシの『タクシードライバー』と『キング・オブ・コメディ』の影響を公言しているらしいが、この二作はたった一言にまで還元してしまえば「共感はできるが、はたから見れば単に身勝手な暴力をふるう男の話」である。フィリップスはこのパターンをそっくり取り囲んで映画に入れてしまったのだ。
『ジョーカー』はモダン・タイムスを見て笑う金持ちたちのように、実は自分自身が批判対象であるにもかかわらず、見当はずれな共感で怒りを増幅する観衆、という状況全てをひっくるめたジョークなのではないだろうか。

証拠が提示できない以上、この解釈は私の妄想に過ぎないが、一つだけ確かなことがある。
もしも、上で挙げたおそらく大半の人々がとる通り一遍の解釈が正しいとした場合、この映画は(美術や技術的なことを除いて)駄作に過ぎない、ということだ。
でも、多分そうではないだろう。