カジュアルな「世界の終わり」-『天気の子』

新海誠が最初に注目されたのは、長編デビュー作『ほしのこえ』だった。そのほとんどをたった一人で作り上げたというこの作品は、いわゆるアート系アニメでなく通俗的なレベルで感情移入可能なドラマであり、シーン毎の完成度のばらつきを考慮しても驚異的な出来だった。

ほしのこえ』には後の新海作品でも引き継がれる最大の特徴がすでに存在する。緻密に描きこまれながらカリカチュア(主に光源の処理)によって極度に美化された背景、もう一つは当時すでに流行の渦中にあった(と、後には考えられている)「セカイ系」作品の傾向をはっきり踏襲していることである。

セカイ系」とは、まあ大まかに言って、個人的なレベルの運命と世界的な事件の行方が何らかの形で同化している物語、というところだろう。一般的な定義は明確でなく、どういう言い方をしてもどこからか異論が出るであろう。例えば私は『ターミネーター』も「セカイ系」の一種だと思うが、ほとんどそう考えている人はいないだろう。
とにかく、個人(多くの場合、最大の他者である恋人)の運命と、世界(多くの場合人類の存亡にかかわるレベルの)の運命が恣意的に影響しあうのである。ある意味自己中心的で幼稚な世界観なのだが、この極度の抽象化は何事かを言い表していた。それは個人が社会と対峙した時の、その認識、態度のようなものである。
日本アニメの歴史に限って言うなら80年代以降の、具体的な社会背景を描く能力を喪失していった作品群の極北、といってよい。
新海は流行にのっとって登場し、かつ一気にその中心の座についたのだった。

新海の重要なモチーフは『ほしのこえ』含め初期の三作に集中している。三作に内容上の関連はないが、固有名詞を入れ替え、要点以外を捨象してしまえば、漱石の三部作のように一続きの連作として解釈することができる。
漱石とは反対に新海の物語は、「かつて恋人だった女性と別れ、距離が開いてゆき(『ほしのこえ』)、後に約束の場所で再開するが、何らかの理由で再び別れてしまい(『雲の向こう約束の場所』)、未だ美しいままの景色が無情にどこまでも続く(『秒速5センチメートル』)」という失恋話だ。
三作の完成度はかなり高かった、と私は思う。ところがこの時点で新海は語るべき主題を語りつくしてしまった。少なくとも私の見るところ新海は失恋以上に重要な、作家としてのモチーフを持ち合わせていなかったようだ。才能が枯渇してしまったのである。

ある一人の作家がその最大作をすでに物してしまった時、また書くべきことを書き尽くしてしまった場合、その後に取りうる道はせいぜい二つに絞られるだろう。自作の劣化コピーを拡大再生産し続けるか、無理にでも変わったテーマや形式に取り組むか、である。そしてどうやら『星を追う子ども』、『言の葉の庭』は失恋を扱ってはいるものの主に後者、『君の名は。』、『天気の子』では前者の方法をとったようなのだ。一方は失敗、他方は成功した、と言えるだろう。
ただし、その成功はかつてと同じなのではない。「セカイ系」の流行はすでに廃れてしまったものなのだ。嚆矢を『新世紀エヴァンゲリオン』としても、『最終兵器彼女』、『ぼくらの』、『交響詩篇エウレカセブン』など「セカイ系」作品の登場は00年代中ごろまでに集中していて、この時期を外れる代表作はほとんどないと言ってよい。なぜそうなったのかは分からないが、とにかく潮目は変わったのである。
00年代後半から『君の名は』ヒットまでの新海は過去の作家であった。少なくとも話題の中心ではなかった。そこへ来てあの記録的ヒットが訪れる。川村元気がどんな魔法を使ったのか知らないが、それは復活以上の未踏の成功であった。

今回の『天気の子』を取り上げてみよう。この作品は同じく「セカイ系」の傑作である『イリヤの空、UFOの夏』と基本的な図式が酷似している。とはいえ『イリヤ』の設定はほとんど直接語られることはなく、特に伊里野自身とその周辺の事情は間接的にうかがい知れる程にしか書かれていないのだが。いずれにせよ『天気の子』の説く主要なメッセージを読み解くには二作の共通項と相違を洗い出せば十分だと思う。
主題に関連する『天気の子』との共通点を集約すると次の三つとなる。主人公は特異な能力のない普通の少年であること。ところが知り合った少女は世界の命運を左右するような重要な問題のカギを握っていること。少女が自身を犠牲にして世界と少年を救う決断をすること。

見逃せない相違点。『君の名は』もそうなのだが、「セカイ系」の特色でもある世界的に起こる破局が『天気の子』では随分矮小化されているのだ。

例えば『イリヤ』では確証はないにしろ外敵の侵略に対して人類には戦う以外選択の余地はなく、敗北はすなわち人類の滅亡を意味するらしい。そのために戦う伊里野は戦闘あるいは訓練時恐ろしい苦痛を伴い、死の危険も非常に高く、実際伊里野の同僚には何人もの戦死者がおり、自身最後の出撃で、世界を救うと同時に戦死してしまう。主人公である浅羽は伊里野の苦痛を見かねて軍から引き離そうとするのだが、伊里野はそんな浅羽を救うために死地に赴くのだ。伊里野が世界を救うため、というより浅羽を救うために差し出した犠牲は自身の苦痛と、結果的な死であった。それを拒否することの帰結は人類の滅亡と浅羽の死なのだ。伊里野にはどこにも逃げ場がなく、その選択は最も深刻な意味を持つ。

『天気の子』では起こる破局は東京の街が水没する程度にまでダウンサイズされている。それは間違いなく大事ではある。被害総額は想像もつかないし、いくらかの死人を出したことだろう(劇中では帆高の行動を弁明するかのように全く言及されていない)。それを阻止するために陽菜は自身を犠牲(恐らく死を伴うのだがそれも曖昧である)にするのだが、帆高はそんな陽菜を救い出してしまう。それは東京の街を犠牲にする決断だった。ところがその東京は3年後に帆高が「上京」出来る程度には生き残っているのだ。

『天気の子』で陽菜あるいはその後に帆高がした選択は、『イリヤ』で伊里野あるいは浅羽のしたものに比べると、かなりだらけた決断に過ぎない。少なくとも『天気の子』は『イリヤ』に情緒の激しさで数段劣る。
また、主人公とヒロインの周囲の大人の扱いにも大きな差がある。『天気の子』では周囲の大人たちは陽菜の能力とその影響力について把握しておらず、ただ何もわからずに帆高に協力するか、あるいは行動を阻止しようとするかである。『イリヤ』では全員ではないが大人たちは、伊里野の境遇を理解して行動している。少なくとも、おそらく伊里野の直接の上官である榎本は、人類滅亡の危機や伊里野の苦痛含め、全てを理解したうえで、彼女を死地へ追い立てている。浅羽と大人たちの社会的な責任は、この点においてほとんど同レベルなのである。だからこそ逆説的に二人の取った行動と決断は重大なのだった。

イリヤ』の主題は「セカイ系」の性質上寓意する範囲が広すぎて、ほとんど「この世は地獄である」と言っているに等しい。実際伊里野の人生は地獄だったろう。浅羽の愛情を除いては。『天気の子』は同様の主題をもっと軽薄に扱っている。『君の名は』と『天気の子』は、『イリヤ』どころか新海本人の初期作と比べても切迫感に欠けているのだ。
なにも情緒の激しさだけが文学的優劣を決めるわけではないが、そもそも「セカイ系」の形式的表現は、世界認識に論点を集約させるためのものである。新海の現在はそのような純化をわざわざ水で薄める作品しか成せていない。
ましてやセカイ系の流行はとうに過去のものなのだ。
今や新海は埃の積もりかけた形式的表現を飽きもせず反復し、興行的には場違いな成功を続けている。